
2021年12月、東京は駒場にある日本民藝館で、毎年この時期に開催される「新作工藝公募展」、すなわち「日本民藝館展」を訪れた。そのことを知人に話すと、一冊の本が送られてきた。それは、鞍田崇が著した『民藝のインティマシー』である。そこで、「新作工藝公募展」の所感を交えながら、本書の書評を試みたい。
思い返せば、いかつい土蔵っぽい外観をさらす日本民藝館の前は何度か通っているし、入館しようかと思ったことも記憶にある。それでも入館に踏み切れなかったのは、入館料の高さだったように思う。民芸をきちんと理解していたわけではなかったが、民芸という言葉から受ける印象と入館料が妙に不釣り合いな気がしたからだ。ちなみに、今回の入館料は1,200円だった。
そんな日本民藝館の創設者である柳宗悦を軸に据えながら、「いまなぜ民藝か?」という問いかけでもって民芸を論じるのが本書である。本論では、民芸を取り巻く現状の分析からはじまり、柳宗悦が民芸に込めた思い、柳宗悦が民芸を打ち出した時代背景と現代の関係、そして近年の日本各地で展開する民芸的取組から民芸のこれからを占うという四つの側面から論じられる。
それほどまでに、いま民芸がアツいということは知らなかった。しかし、年に一度の「日本民藝館展」を待ってましたとばかりに集っていた参観者の熱気は、それを理解させるのに十分だった。
本書では民芸を説明する作品として、羽広鉄瓶を取り上げている。羽広鉄瓶とは、山形市銅町でつくられる「フレアスカートみたいに広がることで、火を受けとめやすくしている」(p.32)鋳鉄製の湯沸かし器具である(写真)。著者は「個人的にも大好きな作品」(p.30)と明かしている上、表紙にもその写真を用いていることから、民芸の代表的な作品として位置づけていることがうかがえる。
羽広鉄瓶に惚れることは自由だ。が、この作品に対する著者、さらには柳宗悦の解釈に、評者は強烈な違和感を覚えた。そこで、彼らの羽広鉄瓶の解釈を通じて、彼らにとっての民芸を確認しておく。
著者は、先に引用した「フレアスカート……」の前置きとして、「……独特の形状は、下で焚かれる火の熱吸収効率を良くするために、機能の観点から編み出されたかたちです。こういうかたちが個性的でおもしろいなあ、ということでつくったものではありません」とする。肝要なことが抜け落ちているように思うが、言っていることに誤りはないだろう。
さらに、その前段には『柳宗悦全集』からの引用がある。そこで、柳宗悦は「……ここ(評者注:山形市銅町)で出来る品としては『はびろ』と呼ぶ鉄瓶が一番特色を示しているでありましょう。胴の下端が広がっている形なので『端広』と呼んだのではないでしょうか。」としている。著者以上に舌足らずな説明である。
この両者に欠落しているのは、羽広鉄瓶が生産された背景としてある当時の住環境、ひいては、ものを煮炊きする設備に対する言及である。つまり、羽広鉄瓶は羽釜同様、竈という存在、あるいは火鉢や五徳といった器具があったからこそ、必然的に産み落とされたかたちなのではないか、ということである。
柳宗悦に関しては、竈や火鉢が現役で機能していた時代に生きていたはずなので、書かなくとも多くの人が理解していることとして記述しなかったのかもしれない。しかし、1970年生まれの著者は、竈や火鉢がほとんど使われなくなった時代に育っているはずである。もし、知っていながら敢えて書いていないのであれば、民芸の現代的意義を問う書物としては片手落ちと言わざるを得ない。
万が一、著者がそのことに無自覚であるならば、羽広鉄瓶を民芸の代表的作品として位置づける選択眼は、いくら熱吸収効率云々に言及したところで、根源的なところでは奇抜なかたちに向けられていることになる。それは、著者が第1章で参照する柳宗悦の「用の美」、深沢直人の「ふつう」への眼差しとはかけ離れたもので、「個性的でこれまで誰も見たことのない斬新さを求め」(p.14)る行為にほかならない。
このようにして考えてみると、もののかたちはその時代の制約の中で生み出されていることがわかる。そして、一見、自由に創作できるように映るアートの世界などでも、社会に対する不満などが、創作の源泉にあることに気付く。かたちあるものはすべて、種々の制約の中で生み落とされた産物なのである。
ところで、湯沸かし器具を取り上げたので、ついでに書いておくと、近年、やかんのかたちが変化してきていることに気付いているだろうか。昨今では、電化住宅が増え、IH(induction heating, 電磁誘導加熱)方式の電気コンロが増えてきた。その結果、底面が平らで、電気コンロ表面との接面が大きいやかんを見かけることが多くなったのだ。徳利を上から押しつぶしたようなかたちのやかんは、羽広鉄瓶までいかないまでも、これまでのものとはいささか異なる。
さて、「日本民藝館展」の話もしよう。鑑賞後に、知人に漏らした感想は、無印良品に似たきな臭さを感じるということだった。ここで言うきな臭さとは、ノーブランドを売りにする無印良品がブランド化するという矛盾である。ちなみに、自らの無知をさらすようで恥ずかしいが、現在、日本民藝館の館長を務める深沢直人が、無印良品のプロダクト開発やデザインに携わっていることを本書で知った。
無印良品に感じるきな臭さは、「日本民藝館展」では民芸作品を公募し、日本民藝館が入選作を選定することになる。つまり、「日本民藝館展」で入選することは、無名の「作り手」から有名の「作家」への階梯となりうるということである。そこには、有名作家の作品は民芸なのかという疑問がつきまとう。
その上、「日本民藝館展」はすでに70回近くを重ねる由緒ある展覧会となった。深沢直人が館長に就任することが大々的に報じられたことからもわかるように、日本民藝館が大きな社会的発信力を有することも見逃せない。評価されていないものを評価する姿勢は、大いに共感する。しかし、日本民藝館のお墨付きを与えた作品の先が見えないと思うのは評者だけだろうか。
入選作を見て感じたのは、伝統的なものを現代につくる意義が感じられないものがいくつか見受けられたことである。中でも、織物は深く印象に残った。ここでは、意匠や仕上の美しさにいちゃもんをつけたいわけではない。制作された織物の寸法が気になったのである。
それは、織物の幅がいずれも着物を仕立てるのに都合のよい1尺強程度であったことだ。そこには、制作に用いている織機が幅を規定してしまっていることが十分に推測される。しかし、現代では着物を仕立てる人は非常に少ない。それを反映するかのように、リサイクル・ショップなどではかつての高級反物が二束三文で売られている現実がある。作り手たちは、この状況をどのように考えているのだろうか。
今日、もし織物を制作するのであれば、洋服地として流通している1メートル前後の幅でつくるべきではないだろうか。それが制作できるのであれば、西洋の高級メゾンの服地として採用されることも夢ではなくなるように思う。さもなくば、反物の幅を活かした洋服などの仕立て方を考案する必要があるのではなかろうか。
織物をはじめ、手仕事の品々が姿を消しつつあるのは、工業生産に太刀打ちできなかった現実がある。それは、入選作の作り手が作品につける価格に如実に表れている。制作に費やされたであろう労働時間を考えれば妥当だとは思うが、我々は工業生産のありがたみを享受してしまったのも事実である。この現実に正面から向き合わない限り、民芸の未来は尻すぼみであろう。
こうした観点から考えれば、「日本民藝館展」の今日的役割として、入選するような優れた手仕事の作品のレプリカを工業生産することも考えられるように思う。その根底には、作り手が自立できるような支援をしない限り、いずれは失われてしまうという危機感がある。すでに「日本民藝館展」は、民芸の作り手の登竜門的存在になっているのであろうが、作り手の入選後を射程に収めてもいいのではないだろうか。
ところで、日本民藝館の展示館設計としての配慮のなさは、目を見張るものがあった。それは照明計画で、展示されている作品を覗こうとすると、自らの陰が重なり、暗くて作品がよく見えないのだ。そこには、自らが選んだ作品を見せる配慮が微塵も感じられない。
ついでに展覧会に注文をつければ、作品カタログを配布して欲しいということである。後日知ったが、公開に先立って、出品者だけが参加できる講評会が行われているらしい※1。ならば、審査員の講評を付した作品カタログがつくられてもいいのではないだろうか。民芸をより広く普及させるためにも。
最後に、事前にろくすっぽ情報を得ずに赴いた「日本民藝館展」では想定外の出会いがあった。準入選作の中に、大学時代の先輩で、現在、静岡を拠点に家具づくりをしている久留聡の作品を見つけたのだ※2。その作品は座編みのスツールで、他にも座編みスツールの入選作はあった。が、中でも一番きゃしゃで、最も安価だった。
大分前のことになるが、彼が座編みスツールの強度の問題で試行錯誤していたのを知っていたこともあり、何とも感慨深かった。買って帰ろうかとも思ったほどだ。実際、買うことはなかったが、買うのであれば、日本民藝館を通してではなく、本人に直接、発注することになるだろう。それが、著者の言う「いとおしさ」なのかもしれない。
なお、本書は、明治大学出版会という耳慣れない出版社から刊行されているが※3、アマゾンでも購入できるようである。民芸に関心を抱いているのであれば、柳宗悦の『民藝とは何か』との併読をお勧めしたい。
※3―明治大学出版会の鞍田崇『民藝のインティマシー―「いとおしさ」をデザインする』のウェブページ(https://www.meiji.ac.jp/press/list/la_sciende/mingei.html、2022.1.12閲覧)参照。
閉じる※3―※2―久留聡の活動については、インスタグラム(「久留 聡 (@hand.works.factory)」『Instagram』Menlo Park:Meta Platforms, Inc.、https://www.instagram.com/hand.works.factory、2022.1.12閲覧)、ウェブログ(fwf05「blog //『家具と玩具と子供たち +猫』」『excite blog』東京:エキサイト株式会社、https://hwf05.exblog.jp、2021.1.12閲覧)を参照のこと。
閉じる※1―日野明子「ひとり問屋・日野明子の宝玉混沌パズル:日本民藝館で毎年12月に開催される”館展”が民藝の世界で健康診断と呼ばれる理由」(『AXIS』東京:株式会社アクシス2019.12.23、https://www.axismag.jp/posts/2019/12/159470.html、2022.1.12閲覧)参照。
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