なめていた。
読みはじめて、すぐに漏れた感想である。何をって、執筆者らの筆力を、である。
編著者である荒木優太の「はじめに」を読みながら、大学をはじめとした高等教育機関に属さない「在野」の研究者として、すでに数冊の著書を刊行している彼の力量によるものだろうと、高をくくっていた。ところが、ページを繰って、執筆者が変わっても筆力が落ちる気配は微塵も感じられない。そこには、在野の研究者として進めてきた執筆者らの研究の一端が日の目を見るという喜びからか、それぞれの文章に水を得た魚のような躍動感がみなぎる。
総勢15名の在野の研究者らによって著された本書は、在野で研究することの意義、姿勢、困難、やりがいなどをそれぞれの立場、視点からまとめた、いわば研究指南書である。
本書を手にしたきっかけは、知人であり、本書で言うところの高等教育機関に所属する「在朝」の研究者から薦められたことにある。刊行後まもなく、薦められていたにもかかわらず、読んでいなかったことにも評者のなめくさった態度が表れていよう。弁解の余地はないが、在野と聞いて、執筆者らの研究が自己満足的、言い方を変えればオタク的な研究の指南書だと錯覚していたことによる。
常々、研究の究極の目的は、研究の意義を社会の中で位置づけることにあると考えている。たとえ、どんな研究であっても、社会の中で位置づけることは可能であるとも思う。当然、それは当該研究を進める研究者に求められる。社会の中での位置づけを自覚できなければ、到達すべき地点が見えてこないからだ。
もちろん、その時々において、社会に理解されやすい研究と、理解されにくい研究があるのは事実である。しかし、その時々で理解されにくいオタク的な研究であっても、それを自らが社会的に意義のある研究に昇華させることができなければ研究者ではない、と考えている。それは、決して研究を社会に迎合させるという意味ではない。ましてや、目まぐるしく変転する、その時々の社会が求めている研究をするという意味でもない。あくまでも、自らの研究の果てに見えてくる光芒と社会との接点を考えるという意味においてである。
この点において、執筆者らは在野であるがために在朝を強く意識し、在朝の研究状況をつぶさに観察しつつ、多くは在朝が手を付けない分野、題材、方法に着目する。そして、在朝が研究しない、あるいはできない理由に言及しつつ、自らの研究を社会の中で的確に位置づけている。
このように書いてしまうと、在野だから在朝が手をつけない、あるいは手をつけられないことを目ざとく探してきて研究を進めているように聞こえてしまうかもしれない。しかし、順序としては逆で、研究の魅力に憑りつかれて研究を進めてきて、いざ自らの研究を位置づけてみたら、在朝には手が出ない、出せない研究だったはずである。冷静に、そして客観的に自らの研究を位置づけられる能力は、いっぱしの研究者以外の何ものでもない。
実は在朝の研究者を見渡してみると、これができない、えせ研究者が多い。研究成果は本にまとめることがすべてではないが、社会に影響を与える本を著すことができる研究者がどれほどいるというのか、ということに目を向ければ話は早い。話題に上っている研究者の本を買ってみたが、最後まで読み切ることができなかったという経験をもつ人は少なくないのではないだろうか。一般大衆に向けて、自らの専門的で、先端的な研究を平易な言葉で書ける人はそうそういないのだ。
時代が異なると言われてしまえばそれまでだが、日本中世史の大家、網野善彦が著した研究書の一つ『日本中世の非農業民と天皇』の奥付を見て驚いたことがある。発行部数は明記されていないのでわからないが、1984年2月に初版第一刷が刊行され、約1年後の1985年3月には第四刷まで発行されていたのだ。岩波書店から刊行されたA5判、634ページのハードカバー、ケース付きのバリバリの研究書が、である。昨今の研究者で、ここまで増刷を重ねられる研究書を書ける人がどのくらいいようか。
評者が手にした本書は初版第三刷で、2019年9月の初版第一刷の刊行からわずか4か月しか経ていない2020年1月に発行されたものである。帯は第一刷当初のものと思われるものに重ねて、新しいものが二重にかけられている。古い帯の「大学に属していませんけど、何か?」に変わって、新しい帯には「人文書としては異例の1万部突破!!」という文字が踊る。網野善彦の本格的な研究書とはいささか異なるが、研究を題材としたものとしては、まさに「異例」であろう。しかも、本が売れないと言われて久しい今日にあっては、なおさらである。
そうした意味で、執筆者らは研究者としての誇りをもって然るべきだと思う。しかし、執筆者の大半が在野であることを卑下しているように感じることは、残念でならない。それは、執筆者の多くが在朝の研究者のことを「プロの研究者」と呼び、プロの足元にも及ばない在野の我々という幻想を内に秘めていそうなことが、ひしひしと伝わってくるからである。もちろん執筆時点では、在野の研究者の存在が社会に広く認知されていなかった背景もあろうが、本書を読めば、彼らがプロの研究者の大半よりも研究の本質を理解していることは疑いない。
ところで、評者は建築学を出自とし、アジアの社会と空間のかかわりを歴史的に繙く研究を志している。かつて、中国に留学したこともある。
本書を読みながら、そもそも研究とは何か、を考えさせられた。これを考えて思い出したのは、中国で現地調査をする際に、「私は調査をしている」と言うか、「私は研究をしている」と言うかによって、調査対象者の受け取り方が微妙に異なることだった。「調査」を使うと身構えられてしまうのに対して、「研究」を使うとすんなりと受け入れてくれることが多いのである。日本では、調査よりも研究という言葉の方が厳かに感じるが、中国では逆なのだ。
明白な根拠があるわけではないが、調査は然るべき機関が確たる理由でもって詰めかけてきたと思われるのに対して、研究は調査者自身の興味本位で来訪したと受け取られると理解している。考えてみれば、調査には学問的に裏打ちされた手法を要する。一方、研究には学問的な背景があるにはあるが、研究を深めるのに自明の手法は存在しない。つまり、研究は誰にでも開かれた日常の営為なのである。となれば、研究に在朝も在野もない。
そんなわけで、本書は在朝の研究者、とりわけ学生に論文を指導する立場にある教員にこそ熟読してもらいたい一冊である。その意味するところは、本書を学生への論文指導に役立てるというよりも、自らの研究に対するスタンスを再確認してもらいたいという点にある。