本書は、かつて三井物産、三菱を凌ぐほどの商社、鈴木商店の興亡を描いたものである。とはいえ、商社たる鈴木商店の名が1927年に消えてすでに1世紀足らず。鈴木商店と聞いてもピンとこないかもしれない。日商岩井(現双日)、神戸製鋼、帝人、石川島播磨重工業……、これらの企業が鈴木商店から派生していると聞けば、どうだろうか。
サブタイトルが伝えるように、「焼打ち」の標的にされるのだからなんとも物騒な会社である。鈴木商店に対する世間のイメージは、とかく悪かったようだ。が、会社がなくなってから40年以上を経ても、当時の経営陣は往時の社員から慕われ続けていたという。この社外と社内のイメージの乖離にただならぬ空気を嗅ぎ取ったのが、著者の城山三郎である。
1927年生まれの著者もまた、鈴木商店を直接知る由もない。とはいえ、著者が調査をはじめた1960年代初頭は※1、鈴木商店、さらには焼打ち事件の関係者がまだ多数存命していた。これら関係者への取材に加え、当時の史料を渉猟し、焼打ち事件の真相に言及しながら、鈴木商店の在りし日の姿に迫ろうとするのが本書となる。
著者は取材で「延三百人の関係者に会っているはずだ」(小松伸六「解説」p.359)という。そこから紡ぎ出される物語はノンフィクション小説というかたちをとるが、記述には研究者さながらの分析が伴う。著者は執筆活動に専念する以前、経済学の大学教員であったというから※2、執筆の原点に研究者気質があることを彷彿とさせる。
関係者への取材をはじめるにあたり、著者が手にしたのは研究書である。鈴木商店が焼打ちされる原因となった米騒動に関するものだ※3。そして、「鈴木が米の買占めをした。だから焼打ちされた」(p.23)という事実が明らかになっていないと批判を展開する。論文の作法ともいうべき、先行研究批判である。
中でも、学生による調査にもとづいて活字化された関係者の証言には、その信憑性に疑問を呈する。そこに、明らかにされていない真実がありそうだという研究者的嗅覚が働いたであろうことは想像に難くない。そして、著者がそれらの証言者を尋ねるところから鈴木商店焼打ち事件の真相究明の物語がはじまる。
小説であれ、研究であれ、取材の対象者の選定や質問は、取材者が描いた筋書きにもとづいて決めるものである。筋書きがなければ、対象者の選定もままならないし、質問も定まらない。だから、取材自体が恣意的にならざるを得ない側面は多々ある。しかし、取材者にとって良くも悪くも、色眼鏡に満ちた筋書きを正してくれるのが取材でもある。
時には証言によって、筋書きがもろくも崩れ去ることがある。ところが、事実の記述を求められる記者や研究者であっても、取材の結果を踏まえて筋書きを更新できない連中が結構いる※4。筋書きに即した回答を誘導したり、筋書きから逸脱した証言を取捨したりするのが彼らの常套手段だ。中には証言を得られなくとも、当初の筋書き通りに書いてしまうのもいるらしい※5。致命的である。
その点、著者の取材力には目を見張る。ここでいう取材力とは、もちろん証言を聞き出す能力や、取材する人数を含む。が、より肝要なのは得られた証言を吟味する能力である。人は意識する、しないにかかわらず嘘をつくからだ。ましてや数十年も前の記憶となれば、なおさらのこと。小説と研究という違いこそあれ、本書が先行研究と決定的に異なるのは、取材力といっても過言ではない。
取材で得られるのは、何も証言だけではない。口ぶり、しぐさといった一挙手一投足も、証言を吟味する上で貴重な手掛かりとなる。こうした挙動への目配りは、たとえ期待していた証言が得られなくとも文章に起こすことを可能にする。著者が証言者の些細な挙動にも目が届くのは、証言を引き出すためにあらゆる史料へ目を通し、取材に臨んでいることの表れであろう。結果、本書では数多いる登場人物の理解にも一役買っている。
著者の証言を吟味する能力は、資料の読解に対しても遺憾なく発揮される。当時の新聞をはじめとした史料を丁寧に読み込み、同時代の史料を比べながら齟齬を指摘しつつ活字化された背景に言及する。そして、悪者としての鈴木商店のイメージがつくりあげられていく過程を描き出す。強いて難癖をつけるとすれば、焼打ち当日に関する鈴木商店側の記述が少ないことだろうか。証言者にしても、史料にしても、ほとんどなかったのかもしれない。
とはいえ、証言や史料の用意周到な吟味の末に立ち現れてくる歴史の真相を、本書に見る。史実の追及に、小説も研究もない。真実は、先入観にとらわれない眼差しがあってはじめて見えてくるのだ。本書が、長らく悪のイメージにまみれていた鈴木商店のイメージを刷新させたことは間違いない。
ところで、タイトルにある「鼠」とは何を指すのだろうか。それは、本書を手に取って確認してもらうこととして、ここでは著者が焼打ち事件の真相以上に、読者に伝えたかったことが隠されているように思うことを指摘して、本書の書評を終えたい。
※5―近年、芸能人などの著名人が週刊誌などを相手取り、虚偽報道に対する名誉棄損を裁判所に訴えるケースが増えてきているように思うが、これは取材結果を踏まえて筋書きを更新することができない書き手が存在することの表れであろう。
閉じる※4―たとえば、新聞記者が結論ありきで取材することに言及した記事に、プレジデント編集部「『朝日新聞の誤報』は、やめられない、とまらない:どうしてこんなことになったのか」(『PRESIDENT Online』2020.5.31、https://president.jp/articles/-/35385、2022.4.30閲覧)などがある。
閉じる※1―文庫版第42刷の小松伸六「解説」によれば、「この作品は、文芸雑誌『文藝界』に連載(昭和39年10月号より昭和41年3月号まで)され、調査時間をいれて約三年の歳月がかかって」(p.359)いるというから、著者が調査を開始したのは1960年代初頭となる。また、本書では井上清、渡部徹編『米騒動の研究』(全5巻、東京:株式会社有斐閣、1959-62)を引用するが、第5巻が1962年に刊行されているにもかかわらず、「全4巻」(p.18)としていることから、第4巻が刊行された1961年から1962年の間に調査を開始したと思われる。
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